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木

東洋の学問で捉える神や仏の存在感




“リトリート”は、良き習慣

“リトリート”というと、改めて、かしこまった時間をつくって、日常から完全に離れて、どっぷりと自分と向き合う時間をつくらないといけない、というイメージや、実際にそう思い込んでいる方も多いのかもしれません。

ですが、リトリートは、改めて時間をつくるという形ではなくて、日常の中に取り入れていただくと、日々が生きやすくなる良き習慣なのです。


例えば、私たちの暮らす東洋の地域には、昔からずっと続いて来た様々な東洋の学問の概念が根付いていますが、ご飯を食べる時には仏教の『(命を)いただきます』『ごちそうさまでした』という心の習慣であったり、どこかに旅行にでかけたりする場合は、神道の自然を大切にする心や、モノを大切にするという心の習慣があります。

こうしたちょっとした所作に含まれる心と向き合って大切にすることも、リトリートの良き習慣です。


リトリートでは内面を意識することで、《感じる》ことを大切にします。それはなぜかというと、この世界はまず目に見えない《心》や《魂》で感じることから意識が生まれて、意識することで行動が生まれて、縁ができて、目の前の現実が生まれてくる・・といった、真理の理に基づいていますから、《心》というものや《魂》という目に見えないものが豊かになることで、現実に現れる現象も豊かになるという、ある意味、始まりと終わりの1本の道筋があると考えるからです。


宗教と道の違い

“原因があれば結果がある”という真理の理を、仏教では《因果の法則》と呼んでいますし、この始終の理のことを古神道や神道では《御道》と捉えて、〇〇道と呼ばれる様々な日常の暮らしの中に取り入れられている所作や作法としてきた歴史があります。


仏教と神道は宗教と捉えている方も多いかもしれませんが、仏教と神道は日本古来より神仏習合として根付いて来た文化であり、どちらも神や仏を身近に感じながら、人道の生き方在り方を説いてきた教えです。


ちなみに仏教は宗教ですが、神道は宗教ではなく御道という捉え方になるでしょうか。

“宗教”は、この大宇宙の真理の法則やそのしくみ、生命のつながりについて説いている壮大なスケールの教えでマクロ的な世界観となりますが、“御道”というものは、現実的な暮らしに根付く生き方や在り方をより良くするために小さな所作の教えに始まるようなミクロ的な世界観となるものですから、宗教が壮大で抽象的な世界観だとしたら、御道は日常の小さな変化を感じる世界観。

どちらも、心や魂や肉体を健全で健康的に保つ智慧の教えですが、自分から宇宙につながる宗教なのか、宇宙から自分につながる道なのか、と捉えていただくと分かりやすいかもしれません。

ですから、仏教は宗教ですが、神道は宗教ではありません。


神や仏の捉え方・感じ方

宗教と御道の捉え方が分かってきますと、リトリートの取り入れ方が分かってきます。

東洋の学問では、どちらにしても、神や仏はいつも自らと共にいることを伝えます。

どこか別のところにいて、そばには居ないと捉える方もいるのですが、特に日本に伝わっている東洋の学問では、常に自らの心の内に存在もし、自らの外側の自然界の中にも存在することを伝えています。

東洋の学問では、万物の法則はこの大宇宙の理であり、私たち人間が生きている世界そのものに働く力であることを説きます。それは宗教でも御道でも同じく、大いなる働きに生かされていることを説いています。


日々の暮らしの中で行う小さな所作のすべてに神や仏は宿っていると考えますし、万物の物にも宿ると考えます。

人間は、毎日の言動や所作そのものを大切にする意識の習慣を身につけて行きますと、朝起きてから夜眠るまで、無意識に習慣的に行えるようになっていきます。

例えば、朝起きて歯磨きをして顔を洗って着替えて・・という一連の習慣的な動作の中でも、いつもと同じようにスムーズに流れるときと、違う流れの起こることがあります。

いつもと同じことをして、いつもと同じ場所にちゃんと戻して整えたはずなのに、ある日だけ、置いたものが落ちてくる・・とか。

トイレの扉を閉めたはずなのに、少しだけ空いている・・とか。


『あれ?ちゃんと閉めたはずなのに・・?』


こうしたちょっとした変化を感じるには、日頃から、自身のする行動が良き習慣化されていないと気付くことはないかと思います。ひとつひとつの所作のすべてに心をおいて感性をおくことは大変ですが、ただ、ちょっとした行動のひとつひとつが習慣化するまでは、ひとつひとつの所作を丁寧に行い身につけて行き、その所作がスムーズに習慣化されるようになると、いつもと違うことが起こるときに、すぐに気づくことができます。


実はこうしたいつもとは違う現象のことを、昔から『御報せ(おしらせ)』と云いました。

よく云われてきたのは『虫の報せ』です。自然界の中で生きていて、自然界の働きに敏感になってくると、虫たちの動きにも敏感になります。虫に起こるちょっとした変化を感じられたり、虫が寄ってきて自分にとまることが起きるときにも、いつもと違うちょっとした変化を感じとれることで、『おしらせ(御報せ)』を知ることができるものです。


いつもと同じことをしているのに、結果が少しだけズレる・・

そんな日常の中のほんの少しのズレを、神や仏の『おしらせ(御報せ)』として感じられるには、日頃より丁寧に生きている良き習慣があってこそ。

いつもと違うと気付くには、丁寧に生きる習慣を心がけることが大切です。


使ったものを元の場所に戻す、開けたら閉める、点けたら消す、脱いだら整えるなど・・

所作が整うことで、『おしらせ(御報せ)』があったときに気づくことができます。

神や仏は自然の働きとして、いつもあなたの身の周りに存在していて、あなたの生き方在り方を生命力のある善き方向へ導いていると云われます。


あなたの身の周りにある空気は、何もないように見えて、あなたの命を生かす働きを宿しています。


大切なことは、あなたはあなたを生かす存在(働き)に、いつも包まれているということを忘れないこと。

そうして自らが生かされていることに気づいて感じられる感性を、日々の中で大切にできることこそが、何よりものリトリートの原点なのではないでしょうか。


あなたを生かしている働きがあることを大切に感じながら、まずは日々を丁寧に大切に生きることから、心がけてみてくださいね。

それでは、また・・


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